私は熊本地震を経験しました。
テレビで地震の映像を見ると、当時のことを思い出します。
なかなか鮮明に思い出し、ちょっと苦しくなります。
「被災者」という言葉、避難所にいる人ばかりではないのです。
「被災者」も、行政職員であり自衛隊職員であり、医療関係者であり、仕事を持つ人々なのです。
避難所に泊まりながら、あるいは車中泊をしながら、仕事に行きます。
私は国の機関で働く国家公務員でした。
夫は市役所職員。
ふたりとも、災害時には職場にかけつける仕事でした。
夫は地震の一時間後くらいには職場に向かいました。
夜中の3時とかです。
それから2週間くらい帰ってきませんでした。
避難所開設と避難所運営をやっていたそうです。
前日の一度目の地震があったので、翌日の夜はなんとなく危機管理をかねて、風呂にはいっぱい水をはり、炊飯器では炊き込みご飯をめいっぱい作っておきました。
炊き込みご飯をおにぎりにして、ペットボトルの水と一緒に夫に持たせました。
(大正解だったな!と思いました)
ペットボトルの水も、2Lを10本くらい東日本大震災のあと常備していました。
食器は全部割れて床に散らばっているので、運動靴のまま台所にあがり、そろそろと歩きながらの作業です。
私は高校に入学したばかりの二女とトイプードルと朝まで近所の少し広い月極駐車場にいました。
近所の人たちもみんな出てきていました。15~20人くらいだったかな。
私は携帯しかもって出なかったのですが、毛布を貸してくれた人がいました。
急にご近所が力強い仲間になった感じでした。
停電で真っ暗な中で、やたらと救急車のサイレン、ヘリコプターの音、などが聞こえていました。
朝になり娘といったん家に戻り、ペットボトルの水で手と顔を洗い、残りの炊き込みご飯を食べ、それから娘とトイプードルを連れて職場へ行きました。
朝7時頃だったかな。
家の中は食器が割れ、テレビが落ち、本棚の本が全部落ち、家具が倒れしっちゃかめっちゃかですが、すべて放置して、炊飯器と米(無洗米だったから助かった)と常備しているペットボトルの水を持って職場に行きました。
職員用に米を炊こうと思ったのです。
これも大正解でした。停電だったけど、発動発電機の電気で米5合を2回炊いて、ラップおにぎりにして提供することができました。
車は夫が乗って行ったのでなかったけど、友達のA子ちゃんが合流し、車に乗せていってくれました。
道路もブロック塀が倒れてふさがれたりはあったけど通行はできました。
地震から数時間後に私が最初に言われた仕事は、ガソリンの契約業者のスタンドが地震で給油不可能となったため、給油できるガソリンスタンドを確認することでした。
次に、国の省庁内の支援が全国からやってくるであろうことに備え彼らの居場所、仕事ができる場所をさがすことでした。
近隣のホテルや施設で使えそうな場所を探すことは無理そうだったので、職場の会議室を提供することにし、その場所の片付けと掃除と机椅子の配置を行いました。
二女は犬と一緒に職場にいて、そこで働くみなさんの姿を見ていました。「すごいね」と言っていました。
その日の夜は、どこで寝ようか迷ったあげく、子供が通った小学校の体育館に泊まりました。
トイレがプールの水を使用し、使えることが分かったから。
二女と犬とA子ちゃんと。(A子ちゃんは一人暮らし)
体育館では子供や学生たちが中心となり、プールの水をバケツリレーでトイレまで運ぶ係をやっていました。
犬連れなことに文句を言う人がいなかったのが幸いでした。
でもその体育館、亀裂がひどかったのです、次の日からは使用不可となりました。
危険な場所に寝ていたことになり青ざめました。
次の日からは子供と犬とともに夫の実家にお世話になりました。
夫の実家は少し田舎の方にあり、井戸水があったのです。
断水中でも井戸水をくみあげ、トイレが使用可能でした。
おじおばも避難してきて大所帯になっていたけれど、私は子供を預けて仕事に行くことができたので、安心でした。
実家の車を借りることもできました。
遠いけどそこから2週間ほどは仕事に通いました。1週間くらいだったかな。
泊まり込みの当番などもあったので、子供が一人にならず助かりました。
6年しかたたないのに、記憶がいろいろと抜け落ちています。
こんな思い出話を書くつもりじゃなかったのに、書いてしまいました。