今朝の明け方はものすごい雨と雷の音で目が覚めた。
土砂降りだ。雷もまぶしく光って、激しい。
ああ、九州だなあ・・・
北海道ではこんな雨の降り方はしない。
あさってには九州へ帰るという日の午後に、義母(夫の母)の訃報が知らされた。
はじめはあさってがお通夜、しあさってがお葬式になりそうという話で、私はそのまま予定通りあさって帰ればいいのではとなり、夫の飛行機だけ翌日分をとった。
が、夕方には、明日がお通夜、あさってがお葬式、しかも出棺は朝8時と決まった。
あさって帰っていたのでは間に合わない。
急遽、ばったばた、それから飛行機を取ったので、夫と同じ便は取れず(昼間見たときはまだいくつも便があったが、夕方にはもうほぼなくなっていた)、かろうじて取れた。
期せずして、夫も一緒に帰ることになった(便は違うが)。
寂しくなるねなんて言ってる場合ではなくなり、子供たちにも喪服やらなにやらの指示をした。
家族葬ということで、参列者は身内だけだったが、子供3人孫8人、義母の妹とそれぞれの配偶者、姪2人とその子供などが、遠くから集合した。
北海道のほか、東京、神奈川、静岡、愛知、福岡、案外全国に散らばっている。
でもみんな集合した。
お義姉さんのきょうだいや私の弟夫婦なども来てくれた。
義母は91才だった。おだやかな人だった。
ていうか、夫の家の人達はみんなおだやかな一族だ。
孫の代までみんな優しいもの静かな声でおしゃべりをする。
認知症が10年以上かけてどんどん進み、寝たきりになって施設に入って2年くらいか、去年からは食事が取れなくなり、胃ろうをしたと聞いた。
最後は肺炎であっさり亡くなったそうだ。
去年も3回肺炎になり、危ないかと思っても毎回復活したそうだが、今回はだめだった。
みんなで思い出話をした。
うちの子供たちは小さい頃、お義母さんにはとてもとてもお世話になった。
病気で保育園に行けないとき、いつも預かってもらっていたから。
病気始めの2日くらいは熱があり病院に連れて行くので、私と夫が交代で仕事を休み自宅で見るが、そのあとの回復期2,3日はいつも、夫が病気の子供と実家に帰るのが常だった。
お義父さんもお義母さんも仕事をやめろなどとは一言も言わず、応援してくれた。
年度末の忙しいときも、預かってくれたり、手伝いに来てくれたり。
この両親の応援があって、仕事も続けられたと思う。
応援がなくても仕事は続けられただろうが、私がしょっちゅう長期に休むことになっただろうから、正確には「周囲にそれほど迷惑かけずに」かな。
今みたいに「病後児保育」などなかった時代だ。
「子の看護休暇」なんてのももちろんなかったし、「育児休業制度」でさえ始まって間もなくの頃で、私の職場では私が第1号だったので、女性の先輩達の目も厳しいというか、優しくはないというか。
妊娠中だろうと私の周りでみんなたばこを吸っていた時代だ。
お義母さん、本当にお世話になりました。
おかげさまで、家族みんな元気でここまで来ました。ありがとうございました。
何度も聞かされる同じ昔話を、回り道の多い長い話を、めんどくさいと思ったこともありましたが、もっとお話しすればよかった。
認知症が思いのほか早く進み、お話できなくなる日が近いなんて、分からなかった。
葬儀の日は雲ひとつない晴れた空で、桜が満開だった。